「緊張」と「弛緩」の出会い

サンチンにしてもナイファンチンにしてもパッサイにしても、その身づかいは同じで、「命門の開き」、「胸鎖関節の開き」、「蝶形骨の開き」・・・・になります。この3つの開きがあってはじめて武術的な脱力が生まれます。

ただ、「開き」つまり「開くという動き」は言葉にすると簡単ですが、実際にやるとなると、かなり難しいものです。なぜならば、そこには「緊張」と「弛緩」の相反する状態を生み出さなければならず、それが意識の集中と大いに関係しているからです。


そのあたりの注意点をサンチンを例にとって、少しだけ申し上げたいと思います。


サンチンの型をするときに、最初に手を合わし、胸のあたりまで持ち上げますが、この動作そのものが、「胸鎖関節の開き」になります。そしてこの開きという緊張が、首のゆるみを導きます。そしてこの緊張と緩みが身体の中で出会うことによって、浸透する「突き」が生み出されます。ですから、突き切る最後までこの「開き」をキープし、同時に首は緩んでいなければなりません。そこに意識の集中が必要になります。

 

次に、胸まで上げた手を下におろしますが、このときも「胸鎖関節の開き」が消えないようにしなければなりません。手を降ろしたときに背中から腰回りの筋肉が緩んでいる必要があります。手をおろすときにこの集中が消えると、肩が抜けて、胸鎖関節は閉じてしまいます。手を挙げ、胸鎖関節が開いたならば、最後までその感覚を保持し、そして首から背中、腰あたりまで緩んでいなければなりません。

ときどきサンチンをするときに、この最初の手をあげておろす行為を省略される方がおられるようですが、この動作を省略してしまえば、サンチンという型がもつ形態の意義は消えてしまいます。「型の奥儀は最初にある」と言われるのはそのためです。そして奥義とは「緊張」と「弛緩」を同居させる身体形成の秘法のことであり、サンチンという型を作った人物の「こころ」そのもののことなのです。型を通して、秘法であるこの「こころ」を自分に移していくことが型稽古の意味でもあります。

上半身の要である胸鎖関節が開けば、次は下半身の要である「命門の開き」になります。命門は直接動かすことができませんので、踵を通して命門を開きます。踵の開きは、足の親指を使って行います。人差し指、中指、薬指、小指そして踵から親指へと順番に円を描くように力が流れていき、親指に流れた分、再び踵に戻り、くるぶしを通って、命門にいたります。この一連の流れを丁寧に行うことで、「命門の開き」につながります。この時も胸鎖関節は開いたままになっていなければなりません。下半身の動きに意識が行くあまり、上半身がおろそかにならないよう、注意をする必要があります。そして「命門の開き」ができた時、同時に臀部の筋肉が緩んでいる状態になっていなければなりません。

 

「胸鎖関節の開き」と「命門の開き」ができた時点で、首、背中、腰、臀部ができる限り緩んでいれば、最後のステップに移ることができます。

 

それが「蝶形骨の開き」です。「蝶形骨の開き」はこの3つの開きの中でも特に意識と大いに関係しています。蝶形骨の開きは目によって生み出します。正面と両脇を見ること、つまり、目に緊張と緩みを同居させることで、蝶形骨は開きます。いわゆる「観の目」「遠山の目」です。このとき口の中で歯を軽く閉じておくようにします。歯を食いしばらないように注意してください。最後の「蝶形骨の開き」が上手くいくと鳩尾が緩み、いわゆる含胸抜背(がんきょうばっぱい)の状態になります。

 

 

「胸鎖関節の開き」⇒「命門の開き」⇒「蝶形骨の開き」 この順に姿勢を作っていきますが、正しい姿勢ができあがり、無理なく、つまり緩んだ状態で立つことができれば、動きそのものは眉間の意識を通して行うことができるようになります。

 

姿勢とは、「胸鎖関節の開き」「命門の開き」「蝶形骨の開き」という緊張と含胸抜背(がんきょうばっぱい)という緩みが同居した状態のことであり、それがいわゆる統一体あるいは自然体と呼ばれるものです。そしてこのことを呼吸の観点で述べれば、開きが吸気、緩みが呼気にあたります。この呼吸は、意識の集中よって緊張と緩みを同居させるなるため、「身体の呼吸」と呼ばれます。

この統一体、自然体とよばれる姿勢ができて初めて、眉間という目の意識、いわゆる意念が作用し、思いもかけないような力を生み出すことができます。この力のことを「勢い」と私たちは呼んでいます。「勢い」とは力任せのことではなく、姿勢という「緊張」と「弛緩」が出会った身体に、意念という心の働きが加わることによって生み出される「エネルギー」のことなのです。