型稽古

命門の開きが、袴腰を作るために欠かせないことでありますが、多くの人が、袴腰を作ることにしくじってしまうようです。

それはきっと意識的な身体操作でそれをやろうとすることにあるのかもしれません。


意識的な身体操作とは、腰回りの筋肉を緊張させたり、あるいは最近はやりの骨盤底筋に力をこめたり、あるいは姿勢を無理につくるために首筋をのばしたり・・・。

もちろん、袴腰や丹田の作り方にはそれぞれに考え方がありますし、また作り方ではなく、袴腰や丹田そのもののとらえ方にも各流派によって考え方が違ますから、どれが正解であるとは言えませんが、私が知った袴腰や丹田は、頭からの身体操作つまり、頭で考えて行う動きでは決して生み出すことができないというものでした。

なぜなら、丹田を生み出すための命門の開きは、現代人の身体動作ではほとんど使うことがない、退化した微細な筋肉群によるからです。つまり頭ではその筋肉群を認識することができないのです。

 

ではどうすればよか。答えはやはり型にあります。その微細な筋肉群を目覚めさせるには、身体全体がその微細な筋肉群に集約できるような骨格上の正確な角度や位置が必要になるのです。それをあるきまった法則で繰り返し動かすことによって、その退化した筋肉群が目覚め始ます。

型を決して変えてはいけない理由はこの点にあります。型を変えてしまうと、その微細な筋肉群の目覚めがおきなくなるからです。


サンチンなどの型が一体何の役に立つのか、技をかける視点からのみ考えれば、型のもつ意味は薄れていきますし、恣意的な思い込みから型を変えてしまうこともあるでしょう。

型稽古の意味合いは、頭ではわかるものではありません。頭でわかろうとすれば、どうしても生まれてから今までに動かしたことがある筋肉に頼らざるを得なくなります。頭で認識できる筋肉を手掛かりに型を考えてしまい、そのために本来不要な力をこめたり、無理に身体を緊張させたり、インナーマッスルを鍛えようとしたり・・・・そのような目的で型をとらえてしまうようになるかもしれません。


サンチンがどの筋肉群を重要視しているかは、改変されていない型稽古を通してはじめてわかるものです。その分かるとは、あくまで身体の目覚めを通しての認識です。この身体の目覚めによる脳への認識というものが、身体知になります。

ですから、型を少しやった程度で「わかった」とは決してならないし、また逆に何十年も型をやったとしても「わかった」と言えるようなこともないのでしょう。

正確な型の動作と呼吸のありよう、意識の持ち方など・・・動作と意識が型という形態に生命力をもたらすような稽古の仕方が大切になっていきます。

身体の目覚めとは機械的なプロセスの繰り返しではなく、型に生命力をあたえるような稽古が必要になっていきます。その生命力とは見た目に力があるというものではありません。生命力とは型という鋳型に込められた叡智の輝きのことです。型に込められた叡智・・・・型の心です。